2007年5月26日土曜日

似て非なる言葉、ガバナンスとガバメント、サステナビリティとサステナブル・ディベロップメント...

似て非なる言葉、ガバナンスとガバメント、サステナビリティとサステナブル・ディベロップメント...
先日、ある大学の国際フォーラムに出席した。テーマは「Democracyfor sustainable development」
基調講演はヘブライ大学のDror教授だ。Sustainabilityに軍事的安全保障をキチット組み込むのはお国柄と言うか、我々が甘いのか。出席者もこの手の会議に在りがちな気の合うお友達限定でなかったのは面白い。特に、温暖化の原因を温室効果ガスとする説に正面から批判的なN.B教授が招かれていたことと、彼への反応も面白かった。FrankFischer教授は、彼とは住む惑星が違うと明言し議論さえしないし、MirandaSchreurs教授などは、客席にむかって、露骨に軽蔑を込めたしかめっ面を大げさにして見せるなど、そこまでやるか?と言いたくなる位だ。ドイツの政治学者B.W.WegenerはN.B.にまだ温厚に忠告をするのだが、逆にNormanBarryの方が挑戦的になる。それに対する日本の教授たちのおとなしさが逆に不甲斐なさにも映った。僕も個人的にはNormanBarryの考え方は、フリードマンを思わせブッシュ政権の手先の様で不愉快ではあった。(この先生、政治哲学者としては偉大な人物である)マイケル・クライトンなんかもそうだ。アダム・スミスの見えざる手は21世紀においても健在である事を改めて感じた。しかし、見えざる手については、Dror教授も総括の講演で触れたが「見えざる手は、腕がありその背後には頭脳がある。それがどのような頭脳か?それが問題だ」と言って見せた。さすがだ。アダム・スミスの時代は神の見えざる手であったけれど「神は死んだ」今、たしかに、背後の頭脳についてよほど思いを巡らせる事が重要なのだろう。頭脳は、ネオリベラリズムであったり、ネオコンやシカゴ学派であったりするし、神だとしてもキリストなのかエホバやアラー、はたまた靖国神社に眠る神なのか。「見えざる手」は見えないところがじつは厄介だ。言葉の背後には何時も思いが隠れているが、無意識に潜んでいる時は厄介だ。特に美しい言葉ほど危険なのかも知れない。そんな一つがサステナビリティだ。持続可能性、格差も貧困も持続可能という事だ。だからCOP3は、発展途上国から排出権を買い取る。サステナブル・ディベロップメントを保障する訳ではない。尤もらしい言葉で最近引っかかるのは「再チャレンジ」出来る仕組みと「努力が報われる」社会だ。努力した少数は階層をよじ登る。しかし、みんなが上って来ることは、人件費とコストアップに繋がり困る。いまの比率で貧困層を固定し確保しておかなければ企業競争力を世界で維持することは出来ない。格差と貧困も又サステナブルー持続可能であることが必要な訳だ。勿論、低開発国は低開発国のままでいてくれるのが好ましい。変化はいかなる変化も世界の秩序を乱すものであり、先進国にはうれしいものではない。死なない程度に生存し安い労働力を提供してくれる事が大切だ。生活保護とODAは何か似たところがある。社会や世界秩序が安定できる限界格差のようなものが在るのだろう。中流が厚い社会と格差社会どちらが国際社会がサステナブルである為に有利かは、もう一度考えてみる必要があるだろう。
 もう一つの最近流行のわかり難い言葉がガバナンスだ。これを正確に翻訳できる日本語は先生方の間でもなさそうだ。Wegenerも、ドイツ語にも無いと言い出す始末だ。EUなどは、正にガバメントの上にガバナンスを被せたオガニゼーションだと思うのだが、EUはガバメントだと言う。最近、カリフォルニアが自動車業界を独自に規制する法律をつくり裁判で争っているがこれが勝訴すれば、アメリカ合衆国というガバメントと並存するガバナンスの登場かもしれないし、全米の市が独自にCOP3をネットワークで批准もどきしているのも、ガバメントを超えたガバナンスかもしれない。ガバメントなきガバナンスもあり得るのだろうか。このあたりは、21世紀を考えるヒントかも知れない。インターネットなどもその重要なツールとなる可能性を秘めている。そう考えてゆくと、「ガバメントなきガバナンス:理想社会」といった言葉をすぐに夢想してしまうのは団塊の世代のサガなのかも。
 21世紀は単なる年号の区切りに過ぎないけれど、やはり、世界は確実に変化しようとしている。20世紀の反省の上に立った21世紀展望はまだ見えてこない。否、その前に17世紀の総括が必要かも。カリフォルニアと変わらない広さの国土に都道府県がひしめき合っている国。そして、その都道府県たるや、関が原以降の藩を廃藩置県しただけが本質だ。戦後レジームのまえに徳川レジームからの脱却のほうが必要なんじゃないのか。「見えざる手」は、見えないから美しい。腕から、顔まで見える手ばかりの社会はいささかうんざりさせられる。