2007年8月28日火曜日

最近気になる表現


●ブレない:日本新党の方々がよくお使いになる
→ 結局 融通が利かない、新しい状況変化に対する対応力が欠如している。
●民主党はばら撒き財政だ
→ ばら撒きこそ「税」の重要な役割。それが所得再配分。ばら撒かないなら税制は不要。
●テロ特措法に関連する自民党のかたがたの発言
→ フランス、ニュージーランド、イタリア、オランダ、スペイン、カナダ、ギリシア、ドイツ等の
  国々も活動しており、日米同盟のみならず多くのヨーロッパ諸国も貢献している。
  彼らが間違っていないという保障は何処に?
  このような、みんながやってるからという発想こそ一番主体性がなく危険。
  何も考えず、皆で渡れば怖くないの典型。
●改革を止めるな
  「何のための」が無い美味い言い回し。金持ちのための改革、外資のための改革、右翼のための改革
  世の中いろんな改革がある。

2007年5月26日土曜日

似て非なる言葉、ガバナンスとガバメント、サステナビリティとサステナブル・ディベロップメント...

似て非なる言葉、ガバナンスとガバメント、サステナビリティとサステナブル・ディベロップメント...
先日、ある大学の国際フォーラムに出席した。テーマは「Democracyfor sustainable development」
基調講演はヘブライ大学のDror教授だ。Sustainabilityに軍事的安全保障をキチット組み込むのはお国柄と言うか、我々が甘いのか。出席者もこの手の会議に在りがちな気の合うお友達限定でなかったのは面白い。特に、温暖化の原因を温室効果ガスとする説に正面から批判的なN.B教授が招かれていたことと、彼への反応も面白かった。FrankFischer教授は、彼とは住む惑星が違うと明言し議論さえしないし、MirandaSchreurs教授などは、客席にむかって、露骨に軽蔑を込めたしかめっ面を大げさにして見せるなど、そこまでやるか?と言いたくなる位だ。ドイツの政治学者B.W.WegenerはN.B.にまだ温厚に忠告をするのだが、逆にNormanBarryの方が挑戦的になる。それに対する日本の教授たちのおとなしさが逆に不甲斐なさにも映った。僕も個人的にはNormanBarryの考え方は、フリードマンを思わせブッシュ政権の手先の様で不愉快ではあった。(この先生、政治哲学者としては偉大な人物である)マイケル・クライトンなんかもそうだ。アダム・スミスの見えざる手は21世紀においても健在である事を改めて感じた。しかし、見えざる手については、Dror教授も総括の講演で触れたが「見えざる手は、腕がありその背後には頭脳がある。それがどのような頭脳か?それが問題だ」と言って見せた。さすがだ。アダム・スミスの時代は神の見えざる手であったけれど「神は死んだ」今、たしかに、背後の頭脳についてよほど思いを巡らせる事が重要なのだろう。頭脳は、ネオリベラリズムであったり、ネオコンやシカゴ学派であったりするし、神だとしてもキリストなのかエホバやアラー、はたまた靖国神社に眠る神なのか。「見えざる手」は見えないところがじつは厄介だ。言葉の背後には何時も思いが隠れているが、無意識に潜んでいる時は厄介だ。特に美しい言葉ほど危険なのかも知れない。そんな一つがサステナビリティだ。持続可能性、格差も貧困も持続可能という事だ。だからCOP3は、発展途上国から排出権を買い取る。サステナブル・ディベロップメントを保障する訳ではない。尤もらしい言葉で最近引っかかるのは「再チャレンジ」出来る仕組みと「努力が報われる」社会だ。努力した少数は階層をよじ登る。しかし、みんなが上って来ることは、人件費とコストアップに繋がり困る。いまの比率で貧困層を固定し確保しておかなければ企業競争力を世界で維持することは出来ない。格差と貧困も又サステナブルー持続可能であることが必要な訳だ。勿論、低開発国は低開発国のままでいてくれるのが好ましい。変化はいかなる変化も世界の秩序を乱すものであり、先進国にはうれしいものではない。死なない程度に生存し安い労働力を提供してくれる事が大切だ。生活保護とODAは何か似たところがある。社会や世界秩序が安定できる限界格差のようなものが在るのだろう。中流が厚い社会と格差社会どちらが国際社会がサステナブルである為に有利かは、もう一度考えてみる必要があるだろう。
 もう一つの最近流行のわかり難い言葉がガバナンスだ。これを正確に翻訳できる日本語は先生方の間でもなさそうだ。Wegenerも、ドイツ語にも無いと言い出す始末だ。EUなどは、正にガバメントの上にガバナンスを被せたオガニゼーションだと思うのだが、EUはガバメントだと言う。最近、カリフォルニアが自動車業界を独自に規制する法律をつくり裁判で争っているがこれが勝訴すれば、アメリカ合衆国というガバメントと並存するガバナンスの登場かもしれないし、全米の市が独自にCOP3をネットワークで批准もどきしているのも、ガバメントを超えたガバナンスかもしれない。ガバメントなきガバナンスもあり得るのだろうか。このあたりは、21世紀を考えるヒントかも知れない。インターネットなどもその重要なツールとなる可能性を秘めている。そう考えてゆくと、「ガバメントなきガバナンス:理想社会」といった言葉をすぐに夢想してしまうのは団塊の世代のサガなのかも。
 21世紀は単なる年号の区切りに過ぎないけれど、やはり、世界は確実に変化しようとしている。20世紀の反省の上に立った21世紀展望はまだ見えてこない。否、その前に17世紀の総括が必要かも。カリフォルニアと変わらない広さの国土に都道府県がひしめき合っている国。そして、その都道府県たるや、関が原以降の藩を廃藩置県しただけが本質だ。戦後レジームのまえに徳川レジームからの脱却のほうが必要なんじゃないのか。「見えざる手」は、見えないから美しい。腕から、顔まで見える手ばかりの社会はいささかうんざりさせられる。

2007年4月2日月曜日

2ndLifeと「感じられる身体」

2ndライフって、俺たち団塊の世代がこれから入っていくんだけど、若い連中がなぜだ!パラレルワールド願望なんだろうか?身体を傷つけたら血が流れるのか?痛みは無いはずだがもしも痛みが感じられたら恐怖だ。メルロ・ポンティは、現象学で、デカルト以来の「主観-客観」の図式を超克しようとした。それが、メルロ・ポンティにとっての身体だった。それがヴァーチャルの世界に投影された時、人格はどう定義されるんだろう。ダニエル・キースのビリー・ミリガンになってしまわないのだろうか?一方で若者の心の病は、「リストカッティング・シンドローム」の様な自症症をも引き起こしている。(下書き中)

2007年3月31日土曜日

新国立美術館:巨大貸画廊?


新国立美術館に行った。作品を持たず企画にあわせて作品をイベント的に借りてきて展示をするのだそうだ。百貨店の催事場でやっている「XX展」を大きくしただけとしか思えない。しかも、ほとんどの作品は過去に国内のどこかの美術館で見たものばかりだ。「箱」は少しも不足していない。美術館の役割は沢山あるがその大切なことの一つが芸術家の育成(作品の買上)と保持と収集だ。ルーブルが新しくなったから負けたくないだけじゃないのか?これだけの「箱」を作る予算があれば多くの作品を国立美術館の方で所蔵し美術界の育成に貢献出来たと思う。それが「美しい国」創りだと思う。
そう言えば、美術館と言う言葉は英語圏では「Museum」のなかの「Museum of art」に分類され、他にも「Science Museum」とか、「Museum of Natural History」あるいはもっと大まかに「大英博物館British Museum」といった具合になる。わが国では逆にこれらを総称する言葉は慣用的にはなく「博物館」「科学館」「民芸館」などと初めから分かれている。但し法律では、<「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般 公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関>と英語のMuseumと同義だ。
Museumを語源で辿ってみると、アレクサンドリアに創設された総合学術機関<ムセイオンmouseion>だが、Museum=博物館の発祥は定かではない。どうも、ギリシャやローマの将軍たちが戦利品を見せびらかすために部屋に集めて展示したのが始まりのようだ。有力な都市が,コレクションを納める宝庫をもち,特定の人々に見せたことも知られている。心理的にはハンターが射止めたライオンの頭を剥製にして壁に飾るのと共通しているかもしれない。市民にとっての美術館はフランス革命後にルーブルとして王室のコレクションを公開したことが始まりのようだ。わが国では神社の宝物殿にその原型が見られる。祇園祭りの宵山で鉾をたて町内の老舗が家宝をお披露目しているのもこのミニ版といえよう。いずれにせよ、分捕ってきたか、搾取して収集したのが始まりのようだ。文明が進むにつれ分捕ってきたり搾取してきた富が貨幣と言う形になってパトロンとして作用しだしたのだろう。
Museumは、略奪や搾取してきたものの自慢から、芸術の収集と育成にその役割を20世紀に変えることとなった。21世紀は果たしてどうなのだろう。新国立美術館はその解答の模索かもしれない。

2007年3月9日金曜日

団塊の世代2.0ー団塊進化論 



BB(baby boomer)2.0、これはブロードバンド2.0と混同されるか?Dankai2.0.いずれにせよ、何となく売れそうだな。団塊の世代もいよいよ社会の第1線から退こうとしている。ふざけんじゃネー。退いてたまるか。まだまだ社会を引っ掻き回してやる。そんな同世代人が多いと良いのだが。第2の人生と言うのはこの世代には似合わない。Dankai2.0だ。

2.0と言えば、ウェブ2.0は、周知のとおりTim O'reilly氏の論文「What is Web 2.0」だ。彼の定義によるとweb2.0とは
1. The Web As Platform
2. Harnessing Collective Intelligence
3. Data is the Next Intel Inside
4. End of the Software Release Cycle
5. Lightweight Programming Models
6. Software Above the Level of a Single Device
7. Rich User Experiences
これ、団塊の世代の行動原理のことを言っていないか?70年安保と学生運動に燃え、自らの情報発信をミニコミとして発信し、サブカルチャーとしてのファッションを生み出し、ロングテール消費を創出していた。なぜか驚くほど似ている。すでに、30年前にアナログ版コミュニケーション2.0は創られていた様に思えてならない。残念ながらその大きなムーブメントはこの世代の就職とニューファミリー化という体制への同化によって希薄化しているようにも見える。しかしながら、ティムの挙げている具体例で言えば「publishing --> participation」などは琴線に触れる。今は宣伝用のフリーペーパーしかなかったが、ロックフェスやジャズ喫茶(何と言う懐かしい響き)では、多くのフリーペーパーが配られていた。ロングテイール消費の魁はアースデイ(歩行者天国)などのフリーマーケットだった。僕は長年これを「Free Market」だと思いこんでいて「Flea Market」と言う言葉を知らなかった。それほどに「Free」と言う言葉が時代の空気だった。

 チョットこじ付けが過ぎるが、2.0をキーワードにして見るといろんなものが見えてきそうだ。ティム風に希望も込めて書いてみると

dankai 1.0 dankai 2.0
publishing --> participation
蕎麦うち親父-->ボランティア
碁会所 -->無料セミナー
無料セミナー-->学生
旅行 -->ロングステイ
余生 -->未来
再就職 -->NPO
盆栽 -->ガーデニング
散歩 -->フィットネス
ヘビーメタル-->シルバーメタル

P.S.団塊2.0 をググってみたら山ほどでもないが沢山ありました。
みんな、考えることは僕と同じくらいに貧困!でも、ティム風に
1.0-->2.0は今のとこ見当たりません。みんなで作れれば
面白いと思いますが。

2007年3月8日木曜日

満月の夜に咲く藍の花

友人の母上で「志村ふくみ」さんという染色家が嵯峨野に住んでおられる。先日、NHKの番組に出られると言うので視てみた。この方のすばらしいのはさておき、そこで、「満月の夜に咲く藍の花」から作った藍染という話があった。この言葉は、ともすれば、CRTの向こう側に偏りがちな僕の思考を一気にCRTの外へとたたき出した。R:22 G:94 B:131H:200 S:83 B:51C:83% M:28% Y:0% K:49%これが、正確な藍色の値だそうだ。Rが20だったら藍色じゃ無いのか?多分藍色なんだろうね。それじゃ、19だったら?18だったら?だんだんと悩ましくなる。しかしながら、絶対確かな藍色がある。藍で染めたら、それは絶対に藍色だ。RGBが何%だろうと、CMYKが何%だろうと、知ったことじゃない。そういうものが、アナログの世界にはあることを、何時しか僕らは忘れ去っている。数字によるデジタル表現は確かに便利だし正確だが、逆にあまりにも不正確で誤ってもいる。「満月の夜に咲く藍の花」で染めた美しい藍染めもコンピュータはR:22 G:94 B:131から外れると、これは藍色ではないと判定するかもしれない。デジタルとか数値化は、絶えずそんな危険を孕んでいる。学校の成績も、会社の評価もすべて数値化される今、実はそれは間違いである大きな危険性を含んだものであることを僕らは忘れがちだ。
レンブラントの絵の色調はオランダの風土に根ざす顔料と密接に関わっているし、レオナルドの絵の色もそうだ。絵を描こうとする人は、絵の描き方を学ぶ以前に描くべき色を作る-絵の具を創る事が必要だった。美しい地中海の海の色を描くには、その色の顔料となるべき石を見つけなければならない。それが師匠の何よりの秘伝だった。僕らは当然のごとくに箱の中にそろった絵の具を手にするが、ほんの60ー70年前は画材やサンの店の裏では、乳鉢で顔料を磨り潰しメデュームに混ぜてチューブに充填する作業が行われていたそうだ。僕も絵描きの端くれであった頃、まだ日本画用の顔料が売られていて、自分で調合しチューブに充填してオリジナル絵の具を創って悦に入っていたものだ。顔料を調合し、箔を混ぜたり、砂や金属粉を混ぜたりすると、同じ色でも、その質感や輝きが見事に変わってくる。そこに、驚きや楽しみがあった。キャンバスに向かう遥か手前の世界、色の獲得のドラマだ。CRTの中でRGBの%を指定すれば瞬時に現れる色とドラマの中から生み出される色の間には、無限に近い隔たりがある。
金色は16進256で表現すると( R188G189B96 )だそうだ。CRTとネットワークの向こうに輝く金色に思わず見とれてしまうが そこにはその重さや、 冷たさやその質感は無い。 All is not gold that glitters.(Tout ce qui reluit n’est pas or.Es ist nicht alles Gold, was glänzt.)輝くものすべて金ならず。さて、逆に言えば、輝かない金もあるんだろうか?

2007年3月6日火曜日

バレンタインとweb






先日ある銀行の営業担当の青年が事務所にやってきた。一通り用事が終わったところで 僕の悪い癖の薀蓄の押し売りが 始まった。わが社と取引するにはこの薀蓄に耐える 忍耐力が先ず要求される。「バレンタイン」だ。と言っても、チョコレートの ではなく タイプライターのバレンタインだ。昔々、もう30年前のこと、エットーレ・ソットサスという デザイナーがオリベッティーの為にデザインしたもので、MOMAの永久保存にも なっている。何が画期的かというと先ず、今までタイプライターと言えば 黒い鉄の塊と 決まっていたものを真っ赤にしたことだ。もちろん、収納ケースと一体になった「バケツ」の 由来となったデザインも ユニークですばらしい。発売当時は何故かTVコマーシャルまで していた。英文科の学生にとってはタイプライターは必需品 だったとは言え、微々たる 数だったと思うのだがどうしてTVCMかはよくわからない。カッコイイと言うよりは「素敵」な CM だった。レナウンのイエイエと同じ頃である。僕の研究室で海外の文献を要約したり するのに使っていたのはレッテラ32だった。 その後、エットーレ・ソットサスはインダストリアル・ デザインに留まらず、建築、都市計画の分野でその才能を発揮する。 僕の大好きな デザイナーの一人だ。
さて、タイプライターと言うのは言うまでも無く、今のKBの様なSWではなく、キーを たたくとタイプフェースのハンマーが インクリボンを叩き紙に印字される仕組みでその 「パン、パン」と言う音がないいとも心地よい。僕の高校には、タイプライター部 があって、部室から聞こえる「パン、パン、パン、カシャッツ、チーーーン」と言う音は 何か文化の香りがし、今でもけだるい 若き日の記憶の音として耳に残っている。 機種によって音色もさまざまだ。サウンドデザインの世界である。その意味では 今のPCのKBもまだまだ文化の域には達していないと言える。
映画の世界でも、 社長の隣で金髪の秘書がタイプを叩いている姿は典型的だ。若い人は知らない ようだが、アランドロンと マリーラフォレのルネクレマンの名作「太陽がいっぱい」 でもタイプライターは大きな役割を果たしていた。金持ちの友人を 殺したアランドロン 演じるトムはアリバイ作りのため友人名の手紙を偽造する。といっても、彼の筆跡を すべて真似ることは 困難なので自署(サイン)のみを一生懸命練習する。そして、 友人の恋人宛にタイプで手紙を書き名前を手書きでサインする。 よく、海外の会社 から受取る形式だ。そこに、刑事の疑惑が芽生える。なぜ、恋人宛が手書きでは ないのか。タイプで打って サインするのはビジネスレターだろう、というわけだ。 なんでもワープロ、反省か。
なくなったのは寂しいが残っているものもある。 今のenterキーは、端末時代はcr/lfだった。Carriage return/line feed だ。EmailのCCだ。カーボンコピィは 知っていても、タイプライターのドラムに方カタカタと紙とカーボン紙を挟んで巻き つけるのを 知っている人はもう少なくなってしまった。それでも、グーテンベルグは タイプライターになり、QWERTY配列とカーボンコピーは パソコンに引き継がれた。 マルコーニはラジオ、TVになり、ダニエルベルと結びついてインターネットとなった。 日本の文明が そのルーツに無いのは少し寂しい。
ところで、その若き銀行の青年の極めつけの質問、
「ところで仮名漢字変換はどうするんですか?」